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捧げもの

芸能というものは、本来エンターテイメントではなく、

神(畏怖するもの)への捧げものだったのだ。

神楽とか能の「翁」を観ているとそんなことを思う。

 

ぼくの知人で、まさにそれを地で言っている人がいて、

彼は基本的に「人間」のために音楽をやるのではなく、

神にささげるためだけに楽器をやっているそうだ。

 

去年くらいにその人に、三味線を習っている旨話したところ、

「じゃあ今度一緒にやろう」という話になった。

習い始めて約二年、ぼく独りの演奏を誰かに聞かせたことはない。

まだまだあんまり弾けないので、避けていたのだが、文句やらなんやらを

言わないであろう神様の前ならばいいだろう、との考えから、つい先日、それを納めてきた。

 

結果的に言うと、正直神様に「出直してこい」と言われるくらいメタメタであった。

なんなのだろうか、つい先日、発表会があってそのときもそうだったけれど、家で一人練習している分にはいいのだけれど、いざ披露する場になると極端に指や頭が動かなくなる。

 

そんな話をその先人に話したところ、

「周りを気にしてるとそうなる、周りなんぞ気にするな。神様に捧げるんだから、いかに向き合えるかが大事だ」

との言葉をいただいた。

 

そうなのだ、確かに今回ぼくは神様にだったら、という気ではいたが、

「案外ちゃんとカッコよくちゃんと弾けたりして」

とかやっぱり考えていた。

 

誰かの前で弾くときに上手くいかないのは、「どう思われるか」を気にし過ぎているからだ。

「ちゃんとできたらカッコいいと思ってくれるだろう」「ちゃんとできなかったら、がっかりされてしまうかもしれない」とか、もともとちゃんと弾くことができないのに、そんなことを気にしていたら、演奏に向けるエネルギーは分散する。

以前の発表会で上手くいなかったのは、単純に練習不足だったからでも場慣れしていなかったからでもなく、「演奏に集中できなかったから」ではなかっただろうか。

 

案外「ちゃんとできる」ことなど、あまり重要ではないのかもしれない。

「楽器」に向き合い「曲」に向き合う。

いかにそれができるか、が結果的にいい演奏ができるかどうかに繋がるのかもしれない。